安藤院長の経歴
1993
滝高等学校 卒業
2004
藤田保健衛生大学医学部医学科 卒業 (現:藤田医科大学)
2006
藤田保健衛生大学 内科 助手
2007
藤田保健衛生大学 内科 助教(医局長)
2011
藤田保健衛生大学救急総合内科 助教(医局長)
2015
岐阜市民病院 医員
2015
藤田保健衛生大学救急総合内科 客員講師
2017
あんどう内科クリニック 院長
2020
岐阜大学医学部総合病態内科学 非常勤講師
2020
医療法人社団藤和会 理事長
Messages
院長から皆様へ
現代は「医療情報過多」の時代です。メディアには毎日のように「スーパードクター」と呼ばれる先生方が登場し、書店には医療関連本が山積みになっています。さらに、ネット上には、信憑性があるのかないのか分からない情報が溢れています。この傾向は「新型コロナ・パンデミック」を経て、ますます強くなっています。その結果、多くの方々が、感じる必要のない“不安”を抱えられているのではないでしょうか?その不安は、大きな医療機関を受診したからと言って、必ずしも解決されません。むしろ、不安が助長されてしまうことも多々あります。専門性が進みすぎたことによる「病気優先」「データ優先」の医療の弊害です。
「専門に特化しすぎた医療では、地域医療を担うことはできない」と考え、私は当時マイナーな領域であった『総合診療』を徹底的に学んできました。具体的には、『領域に関わらずあらゆる症状の方が受診される総合診療外来』、『多くの診断困難症例が入院してくる大学病院総合内科入院管理』、『歩いてくる方から心停止で搬送されてくる方まで受診される救急外来』などを働き場としてきました。また、こういった総合的な診療を実践する上で、患者様の背景にある心理的な問題へのアプローチの必要性を感じ、『心療内科外来』も行っています。さらに、生活習慣病等の最新の知識を更新していくため、『研修医教育』も積極的に行ってきました。
「“病気”ではなく、病気を患ったそれぞれの“人”を診る」――この想いは、コロナ禍を経て、益々強くなっています。
あんどう内科クリニックは、地域の皆様に寄り添い、健康のこと、医療のことを“気軽に”“安心して”相談できる『街の健康サロン』になれるよう努めてまいります。皆様にとって、距離的にも心理的にも、いつも近くにいるファミリードクターとして、末永くお付き合いいただければ幸いです。
今の診療スタイルができるまで
「患者さんの“物語”を大切にしなさい」
これ、今も私の心の中にある師匠の言葉です。
私が総合診療を学びだした2000年代前半は、『EBM:EvidenceBasedMedicine(根拠のあるデータに基づいた医療)』が注目されはじめた時代でした。もちろん、この考えは私の診療スタイルの柱の一つです。「医学的に正しい」を知らないと患者さんにとっての正解にたどり着けないと、今でも思っています。
でも、それだけでは何か違う――何か“無機質な“感じを常に持っていました。「医学的に正しい」が必ずしも「患者さんにとって正しい」に結びつかない現実を何度も経験し、悩むこともありました。そんな中、出会ったのが冒頭の言葉です。
“物語”を大切にした医療――
この言葉を強く心に刻み込む出来事がありました。私が人生の中で出会った「最高にカッコいい男」の話です。少し長くなりますが、私の昔話に、ちょっとだけお付き合いください。
私が医者になって5年目の話です。当時はある程度経験も積み始め、病棟でも頼りにしてもらい・・・多分、ちょっと天狗になっていました。『EBM』を振りかざしていた時代です。
そんな中、救急外来から『89歳男性、失神』の相談を受けました。「居間でテレビを観ていたら、突然意識を失った」というものです。すぐに意識は回復し、今は普段通りとのことでした。「状況からは心臓が原因の失神だ!今問題がなくても再発率も高いし、2年後の死亡率も上がっちゃうし・・・原因精査で入院だ!」…もう、まっしぐらです。
入院後、色々な検査を行いましたが、特に異常は認めませんでした。むしろ、年齢に比べて極めて健康。採血結果も満点でした。
健康なことにもびっくりしたのですが、何よりも、とても穏やかで、「かわいい」(失礼汗)おじいちゃんだったことが印象に残っています。背は小さめで頭はツルツル(重ねて失礼汗)、診察に伺うと、いつも「ありがとうね」と優しく声を掛けて下さったのを覚えています。ベッドの背中を少し上げて、頭の後ろで手を組んで、いつもニコニコ、看護師さん達には「キクちゃん」(重ね重ね失礼汗)と呼ばれ、癒しキャラで大人気でした。
加えて、ご家族もとても素敵な方々でした。三男さん夫婦と一緒に住まれていたのですが、このご夫婦も同じくとても穏やかで優しくて。お嫁さんも甲斐甲斐しくキクちゃんのお世話をしていました。ご自宅でも穏やかに過ごされているのが、容易に想像できました。
結局、特に原因が特定できないまま、一週間程度で退院になりました。
数日後、また救急外来から連絡がありました。「数日前まで入院されていた先生の患者さんが、また意識をなくして来られています」――もちろん、キクちゃんです。迷わず再入院。「今度こそ原因を見つけるぞ!」という思いも空しく、今回も原因の特定には至りませんでした。当時の私の実力が足りなくて申し訳ないばかり。それでも、やっぱりキクちゃんは頭の後ろで手を組んでいつもニコニコ。ご家族も優しい言葉をかけて下さり、むしろこちらが恐縮するばかり。
それから3年の間に、キクちゃんは計5回入院されました。毎回同じような症状での入院ですが、年齢的な問題もあり、症状はどんどん重くなっていきました。それでも、やっぱり原因の特定はできませんでした。一度は入院中に完全に意識を無くされ、何時間も生死の間を彷徨われました。そのタイミングでやれる限りの検査を行ったのですが、それでも原因不明。でも、3時間後には全く元通り。もどかしさばかりが残る入院でした。今思うと、よくご家族も納得していただいていたなぁ~。
そんなキクちゃんですが、最後の入院の際は、入院中に誤嚥性肺炎などを発症され、ほとんど寝たきりの状態になっていました。頭の後ろで手を組むお決まりのポーズも見られなくなり、言葉を発することも無くなりました。重症の方はナースステーションの近くの個室でモニター管理をするのですが、いつからかその部屋はキクちゃんの部屋になっていました。呼びかけへの反応は全くなくなり、血圧や脈拍も不安定。もう“風前の灯火”の状態です。
「そういえば、奥さんはまだご存命だったよね?最期のお別れになるかもしれないし、お呼びしようか?」
ご家族を含めて3年のお付き合いでしたが、奥様にお会いしたことはありませんでした。認知症をお持ちということは知っていましたが、実際、かなり症状が進行していて、ほとんど家で寝たきりの生活、キクちゃんが身の回りのお世話をしていたとのことでした。ご家族や病棟スタッフと綿密に打ち合わせをして、面会の予定をたてました。
面会日を迎えるまでの間も、キクちゃんの容態はどんどん悪くなっていきました。血圧を上げる薬にもほとんど反応しなくなり、「よく今日までもってくれた」というのが正直な感想でした。実際、ご家族が到着される直前には血圧が測定できなくなっていたのです。そんな中、奥様が来院されました。聞いていた通り、かなり認知症が進んでいる状態で、恐らくご自分が病院にいることも分かっていなかったと思います。車椅子に乗せられた奥様と三男さんご夫婦、担当看護師と一緒に、キクちゃんの部屋に入りました。
その時見た光景は、今でも忘れることができません。
ベッドの上には、頭の上に腕を組み、口元に笑みを浮かべてこちらを見ているキクちゃんの姿がありました。まるで何事もなかったかのように――医学的には絶対にあり得ない光景でした。「キツネにつままれた感じ」とは、まさにこのこと。私は言葉を失い立ち尽くしてしまいました。
「おじいさん、何でこんなところにいるの~。早く帰ってきてよ~」とベッドの横で大泣きされている奥様を優しく見つめ、何度も何度も頭を撫でるキクちゃん。言葉は発しませんが、病室内には温かい空気が溢れていました。この空間を邪魔してはいけないと思い、私と担当看護師は部屋を後にしました。
20分程度の面会を終え、奥様と三男さん夫婦は帰って行かれました。病院の玄関先までお見送りさせていただき、病棟に戻る私と担当看護師は幸せな気持ちに包まれていました。「いやぁ、まさか復活されるなんて!今まで何度も奇跡的に回復してきたキクちゃんだし、もしかしたらこのまま元気になって退院できるかもね。奥さんに来てもらって良かった!」そんな会話をしていた時、私の院内携帯が鳴りました。
「先生!〇〇さん(キクちゃん)の心拍が停止しました!」
急いで病棟への階段を駆け上がり、キクちゃんのいる重症部屋に飛び込みました。そこでは他の先生や病棟の看護師達が、一生懸命心肺蘇生を行っていました。小さくて痩せ細ってしまったキクちゃんの胸の骨は、心臓マッサージで折れていたと思います。「みんな有難う。でも、もうこれ以上の蘇生はやめよう。キクちゃん、すごく頑張ったし、これ以上は望んでないよ。」――この時の判断が正しかったかどうかは、今でも分かりません。当時は患者様の携帯番号まで病棟では把握できておらず、すぐに三男さん達を呼び戻すことが出来なかったという事情もありますが、もしかしたら戻って来られるまで心肺蘇生を続けるべきだったかもしれません。
でも、その時の私は、せっかくカッコいい引き際をみせたキクちゃんの意思に反する行為に思えたのです。人生の最期の力を振り絞り、最愛の奥様に対して「最高にカッコいい男」の姿を見せたキクちゃん・・・心の底からの尊敬と憧れ。「こんな愛情に満ちた人間になりたい」と今でも思っています。医者になり沢山の人生に関わらせていただきましたが、これほどまでにカッコいい引き際は、後にも先にも経験したことがありません。お見舞いで疲れ果ててしまった奥様を自宅に送り、三男さんのご家族が戻ってこられた際には「こんなに大切に接して下さり、最期に母に会わせていただき、本当に有難うございました。」という、もったいないほどの言葉をいただきました。
この話には、後日談があります。キクちゃんが亡くなって一か月後、病院内の自動販売機の前で、たまたま三男さんと再会しました。「その節は大変お世話になりました。実は、あの後急に母の体調が悪くなり、数日後に亡くなったのです。認知症はあったのですが、内臓系の病気は何もなくて、元気にしていたのですが・・・。今日は、母の入院の際の手続きをしに来たのです。」
これは、単に私の想像ですが――おそらく、奥様は「最高にカッコいい男」の姿をみて、満足されたのだと思います。そして、これからも「最高にカッコいい男」の隣にいるために後を追ったのでは・・・エビデンスも何もないお話です。
以上、「最高にカッコいい男」の話でした・・・ということではありません。当時の私は、医学的に正しいことをしていた自信もありますし、患者様やご家族とのコミュニケーションも積極的にとっていたと思います。でも、もしかしたら、私の決めた入院が、こんなに素敵なお二人の大切な時間を奪っていたのではないか、もし、私がお二人の“物語”を知っていたら、もっともっと素敵な最期の時間を過ごせていたのでは・・・タラレバを言い出したらキリがありませんが、少なくとも「最高にカッコいい男」の最期に寄り添うには役不足だったと思います。
それ以降、私の診療における大きな柱に“物語”が加わりました。そのために、出来るだけ患者様と“雑談”をするように心がけています。もちろん、その方の中の“物語”に触れるためでもありますし、単純に人生勉強をさせていただいているところもあります。また、私が心療内科を勉強したのも、より患者様の“物語”を診療に生かしたいと考えたからです。
「ちょっとはキクちゃんの最期に寄り添っても恥ずかしくない医者になれたかな・・・」
今の自分の診療スタイルを作ってくれた、少し昔のお話でした。